『三ノ池植物園標本室 (上・下)』を読んで
『三ノ池植物園標本室
上 眠る草原
下 睡蓮の椅子』
(ちくま文庫 2018年)
細い線のシンプルな装丁に惹かれた。
物語は、
仕事に追われて疲れ果てた現代の女性、
大島風里の語りで始まる。
この風里がなんともまあ、
しゃきんとせずにふわふわしている。
決めるところでは
しっかり決断するのだけれど、
人との関りになると
ふわふわしている。
仕事を辞め、
新しい家、
新しいアルバイトの植物園、
新しく出会う人々。
周囲の人物がとても魅力的だ。
風里が苦手とする石塚くんが可愛らしい。
さてさて
これからどうなるかしらと
読み進めると、
あらら
語りべが変わっている。
どうやら時代も、
現代ではなく昔らしい。
時代と語りべを行き来しながら、
別々の世界を生きていた人々の繋がりが
少しず紐解かれていく。
さっき出てきた人物の名前は何だっけ?
これが誰でじゃああの人か?
ときどきページを戻っては
読み返しながら楽しんだ。
あっちで繋がりこっちで繋がり、
生きて亡くなり、
また生きていく。
「これはこうだ」
と言う人がいる。
断定的な物言いをする。
聞いている人物は、
―そうじゃないんだけどな
―自分はこう思っているんだ
―こういうことなんだ
思うところがあっても
否定したり言い返したり、
自分の思いを表現しなかったり、
表現できなかったりする様子が、
物語のあちらこちらで登場する。
強くは言い返さないが、
胸の内には
その人なりの別の答えを持っている。
亡くなった父親との
夢の中での対話など、
ファンタジーな部分。
人間が人間らしく、
弱かったり、
未熟だったり、
調子に乗っていたり、
悪気がなかったり、
悩んだり
苦しんだりする様子が、
重くなく、
それでも丁寧にふんわりと描かれていた。
生死にかかわる部分では、
こらえたけれども涙があふれた。
作中、
二人の人物の死が描かれ、
どちらも語りべは「子」であった。
「父親」の死。
特別涙を誘うような表現が
されているようには思わなかったけれど、
年を取って涙腺が緩くなったようである。
感動だとか共感だとか、
そういった捉え方をする人も
あるかもしれないが、
私にはまだ、
涙があふれる心の内を
表す言葉を見つけられずにいる。
読後感のいい作品に出会えた。
読み終え、
本を閉じてから
上下巻2冊の装丁を改めて見直した。
とてもよく作品を表している。
せっかく装丁に惹かれて読み始めたのに、
読み終えるまで
ちっとも気がつかなかった。
上巻の「あの部分」と
下巻の「あの部分」が繋がっていて、
しゃべってしまいたいけれど、
まだお気づきでない方にはもったいないので
ここでは伏せておく、
先に読んだこぎ父(ツレの父親)は
気づいていたであろうか。
次の読書感想文が届いたときにでも
尋ねてみることにしよう。