三度の飯より本を愛するこぎ父(こーぎーの父親(80歳))より、本のあらすじをまとめた感想文が届きました。
今回ご紹介するのは、江馬修の『山の民(上・下) 』(春秋社 新装版 2014年)です。
『山の民(上・下) 』を読んで
山車が古い街並を練り歩く。
20年程前、名古屋勤務の折、この高山祭を含めて節々に高山を訪れた。
その高山陣屋がこの本の舞台。
かつて訪れた高山の街並、陣屋の辺り、山車の記念館。
その風景を思い出しながら読み進んだ。
明治維新の進行に対する地方の対応、特に高山のような幕府直轄地での戸惑い、苦悩。
代官、町衆それぞれの将来への不安。
以前読んだ島村藤村の『夜明け前』の木曽の山中の人々のことが二重写しとなった。
明治維新から150年、明治、大正、昭和、平成と、この4月1日には新しい元号も発表された。
今改めて、日本の近代化150年の歴史を振り返る為にも、その頃の流れを掴むためには恪好の本と思われる
初版から30年後再版された上・下2巻合わせて800項を超えるこの大作、貴重な歴史本と思料する。
「梅村騒動」と言われた史実に基づく農民一揆のこの物語は、深い雪に閉ざされた慶応4年(1868年)まだ「明治」に改元される直前の高山の正月23日の真夜中から始まる。
その静寂な町を揺り動かすような「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声と共に早かごが陣屋に到着。
当時の混沌とした政治、社会情勢視察のため、郡代 新見内膳から密偵を命じられ、岐阜方面へ派遣された、所謂土着士族の地役人である寺田潤之助が戻ったのだ。
早速の評定開始、寺田の報告。
朝廷から幕府討伐の勅令が発せられ、東山道鎮撫の先鋒隊が、すでに濃州大垣笠松辺りまで来て、その辺りはすでにうち従えられた由。
狼狽する郡代、明日にでも江戸へ出立したら如何かとの結論に意気消沈するどころか朝廷軍と一戦を交えることなきに却って安堵する。
そして早速雪の山中小人数を従えて逃げ出す。
郡代のいなくなった高山では朝廷先鋒隊に今後どう対処すべきか、郡中会所に名主組頭、百姓代らも交えて議論が始まった。
特に先鋒隊に加わっている不倶戴天の仇敵、郡上藩の兵士を如何にして追い返すか。
そして、その郡上藩からの施し米を返上申出。
この後、先鋒隊隊長 竹沢寛三郎と、すでに高山一の御坊照蓮寺を我が物顔に宿としている郡上藩家老 鈴木兵左衛門との主導権争いが両者の思惑と相俟って、陰湿に、京都の東山道鎮撫総督府も巻き込んで激しく長く続く。
郡上藩の反動的な陰謀(飛州の乗っ取り)を打ち破って、あくまで天朝の直支配の下に立とうとしたこの動きは、飛州総百姓の民主的な郷土防衛の運動であった。
将来のことはまだわからぬとしても、この時点でとにかく年貢の半減など仁政を約束してくれる竹沢の方がありがたいと考えていた。
郡上藩の追い払いに成功し大喜びしているのもつかの間、この本の本題である「梅村速水」が、すでに竹沢の後釜として命を受け高山に向かっていたのである。
いよいよ大ドラマの始まり。
あれほどの苦労をして、郡上藩あずけを逃れて、天朝直支配と決まり、一同安堵として竹沢の下に新しい時代が始まろうとしている矢先、突如として全く見も知らぬ男が竹沢の役目を奪うため乗り込んで来たのである。
それが、名前こそ変わっているが、かつてこの地で女のことで刃傷沙汰を起こし騒がせた浪人男その張本人だったのでびっくりするやら失望するやら大騒ぎ。
地元に春を告げる山王神社の祭礼を待たず昨日まで恩人とあがめられていた竹沢は追放人のような寂しい姿で去って行った。
地役人らが、浪人の成上り者に過ぎないこの男がどんな施策を新規にやるかと心配したとおり、後釜梅村は竹沢の“仁政”を次々悉くひっくり返していく。
そして、代官橋づめ制札場へ高札
"「今般御一新取締の処、
他国より立入り、
姦計をめぐらし、
民心惑乱いたさせ候者、
並みに他国人と内通いたし、
容易ならざる儀を企て候のやから有之由、
不届至極の事に付、
早速召捕り誅戮いたすべきもの也」”
この高札掲示直後、前任竹沢逮捕、穏督府送りとの知らせ。
自分たちの為に戦ってくれた大恩人の逮捕に、その真相が掴めぬまま、人々は、慈悲深い朝廷なるものは果たしてあるものか、御一新とは何なのか、何を信じて良いのか途方に暮れ落胆したのだった。
こうして梅村速水の自分なりの政治が始まった。
そして、地元のすごい不人気にも拘らず、維新政府は彼の誠忠を認めて飛騨国高山県知事に任命したのである。
次々に発せられる布告に、梅村と地元住民との意識の乖離は益々拡大していく。
彼は、あくまで誠実で熱心であったがいかにも主権的で我意が強く、自分はあくまで朝廷の主意と維新の精神によって行動しているのだという自分の信念と空想的な計画の美しさに眩惑され、一筋に性急な実現を焦った。
飛騨の民衆はひとりの例外もなく仏教徒であった。
各神社の御神体も昔ながらの古い仏像であったりした。
神仏分離を建前とする梅村の御神体調べ、ご神体の仏像の没収、祭礼の差止めは、次第に民衆の怒りを募らせていった。
一方梅村の方は、自分の政治に反対する者を容赦なく逮捕、牢屋送りとした。
そして、遂に男女密通の罪で捕らえられ、12月のすでに霜柱の立つ陣屋の制札場にその小娘が荒縄で縛られ晒されるに至って、この余りにも手きびしい風儀の取締りは年頃の娘を持つ親達を極度に恐怖させ、梅村に対する怨恨と憎悪をかき立て、民衆の怒りは爆発寸前。
続いて、役所へ歎願に来ていた山方の村々の総代など24人逮捕、陣屋前の雪深い広場に縛られ棒に括られ晒されたうえ死刑宣告。
さらに山方への調練隊による捜索、それを知った男たちの山奥への逃亡、その留守を守る女たちへの調練隊の狼藉、山奥で逮捕された百姓達の元日早々の制札場の寒空の下での笞打ち刑・・・
このむごい処刑は村々に伝わって、いよいよ血に飢えて無道な残虐な暴君として梅村への憎しみはますます増大していく。
そして、梅村に反対する旧地役人らの上洛、行政官への訴願、それに気付いた梅村の上洛、両者の京都での戦いが始まる。
梅村の留守の地元でも、梅村親衛隊の排斥運動が半ば公然と展開し始め、梅村方として睨まれていた小役人宅の打ち毀し、所謂一揆が始まった。
牢屋も。
調練隊長も捕まった。
こうして高山の町、周辺の村々は暴徒に占領されてしまった。
そして、梅村を二度とこの地を踏ませないことを誓って一応収束させた。
この事態を知った京都では、刑法官で梅村の取調べが始り、梅村の帰国して平定したいとの必死の訴えにも拘わらず禁足を命じた。
愛妾追放の知らせもあり心早る梅村は、禁を破り京都脱出を決行、その報に地元民は梅村の帰還を阻止せんと再び一揆体制を組み、国境での梅村隊との戦いが始まった。
この戦いで梅村は負傷。
京都から、新しい監察司知事 宮原大輔が高山へ到着、当面の新しい秩序が始まろうとしていた。
梅村が立てた制札をおろさせ、徒党強訴の大罪を犯さぬよう説得に努めた。
宮原が正式に富山県知事に任命され、一方負傷して国境の寺で療養していた梅村は、公金用途不明の罪で唐丸かご送り、その後、東京刑部省の獄入りとなった。
そして、獄中で逝去。
一旦落着いたかに見えた高山も、暫くして一揆参加者の捜索が始り、逮捕、入牢、京都への護送となった。
大半は、一番貧しい正直な火方、百姓などで、顔役たちは却って騒動取り鎮めの功でほめられたのである。
いつの世も、最後は一番弱い者に責任が転嫁され“一件落着”となるのである。
この物語も、冷たい雨の中、その貧しい者たちが縛られ竹編みの唐かごで身内に見送られ故郷を後にし、入牢、獄死の運命を辿るのであった。
明治維新とは何だったのか、改めて考えさせられた大作である。