こぎ母が脳出血で倒れて入院したのは、3年前の2月でした。
当時のことはツレがブログに細かく記してくれています。
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久しぶりに読み返してみるとなんとも不思議な心持ち。
(絵のへんちくりんさは変わらない 笑)
らっこの頭でも当時のことを順に振り返ってみることが時々あります。
どんな時にかって?
それはですね、3年前のことをまったく覚えていないこぎ母が、こぎ父に
「私は何の病気?何があったの?」と尋ねることがあるのです。
それはいつ頃からだったのでしょうか。
こぎ父はいつの間にか、こぎ母への返答に
お風呂で転んだと言うようになりました。
ん?
らっこの記憶となんか違うぞ?
こぎ母に答える言い方を変えただけなのか、こぎ父の頭の中でもそうなっているのか。
わからないのがなんとも怖い。
何かが怖くて本心をきけません。
当時のことのらっこの記憶ですと、
●夜、入浴中だったこぎ母が、水道の蛇口が見つけられなくなってしまった。
(お湯が止められなくなったんだっけかしらん?脳出血の影響で視野狭窄が起こっていたのかも?)
●こぎ母に呼ばれたこぎ父。こぎ母を落ち着かせてふたりで床に就く。
●翌朝、トイレに行こうとしたこぎ母が転倒して頭部を打撲。
●起き上がれなくなってしまったこぎ母。
●2階で寝ていたツレにこぎ父が声をかけ、ツレとらっこが駆けつける――と。
もしかするとこぎ父の言う通り、こぎ母は「お風呂で転んだ」のかもわからなくなってきました。
入浴時の状況は誰も見ていなかったわけですからね。
翌朝、布団を敷いた畳の部屋で転んだこぎ母。(この転倒は本当。こぎ父が目撃)
頭を打ったという場所が、よりにもよって畳から少し高くなった床の間の硬い木の板だったといいます。
痛かった……
タンコブができたところは、出血などの異状はなかったそうですけれどね。
呼ばれて駆けつけたツレとらっこがこぎ母の様子を見てからは、救急車を呼ぼうとすぐに決めていました。
それでも実際に電話をかけるまでには5分?10分?もう少しかかったかもしれません。
らっこはてっきり、こぎ父がすぐに電話をしていると思い込んでいました。
「電話?してないよ?」
あれ?
誰も電話をしていないことに気が付いたツレが119にかけてくれたような記憶です。
電話をするまでに、トイレを我慢していたこぎ母をツレとこぎ父がなんとかトイレに座らせてくれたところは覚えていますが、そのあと着替えのズボンやら何やらをどうしたのかは、今ではちっとも覚えていません。
やけにはっきりと覚えていることもあります。
救急隊の方たちが来てくださり、さっきまでのツレとこぎ父の動作とは比べ物にならないようなスムーズな動きで、こぎ母を車に運んで行ってくださいました。
搬送の際に家族にかける言葉というのは、マニュアルで決まっているのでしょうかね。
患者の家族に向けて、隊員の方が必要な持ち物を説明してくださったんですね。
その中に「履物」がありまして。
「病院から帰るときに履く靴を――」
用意してください――
言葉遣いや単語の記憶はかすんでいるのですが、帰るときに靴が必要だからと、なんとなくそんな内容だったと思います。
なるほど、家の中からの搬送なので本人が土足を履いていないからなあと納得する反面、
『靴を履いて帰ってこられるような状態ではないだろうけどな……』
そんな風に思ったことだけは、妙に今でも覚えています。
その時の想像は半分アタリで半分ハズレでした。
最初に入院した病院から、その靴を履いて帰ることはありませんでしたけれども、その後本人の足で歩いて帰ってきましたから。
久しぶりに少し思い出してみて思いました。思ってばっかり。
3年前のことはそろそろいいかな。
今のことを考えようか。
ああそう、それが、わたしが一番苦手なやつだなあって。
こぎ母の言動を見ていると、今を誰より一生懸命生きているなあって、感じられるのです。
それを絵と文で表現できていないことが、なんともどかしいことよ。
らっこは一人では何もできません。
こぎ父がいて、こぎ母がいて、ツレがいて、らっこがいて。
誰が何やって彼が何やって、こうしてああして毎日が過ぎてゆく。
ものすごく絶妙なバランスで、今日という毎日を過ごせています。
ありがとうございます。
読んでくださり、ありがとうございました。