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極端な選択への思いは、いつも傍にあるらしい|らっこ

道端の花です。

夕飯の洗い物は、こぎ母がやってくださることもしばしば。

今夜は「らっこさん、洗い物は私がやるから、置いておいてね」と言って歯磨きに立ったこぎ母。

「やる、やらせて。私の仕事だから」と言ってやろうとしてくださるものの、やることを忘れてしまっていたり、やっぱり疲れてた、寝る、と言って途中交代となったりすることも多いため、「は~い」と返事をして、こぎ母が歯を磨いている間に、食器は水で流すだけで済むように、洗剤で洗っておきました。

 

先に部屋に戻っていたところにツレから、「洗い物やっちゃおう」と声がかかりました。

こぎ母は、歯磨きを終えて台所の洗い場ではなく、寝室へ行き、寝る支度を始めていたようでした。

ツレと二人でこぎ父の食器以外(晩酌が終っていない)、洗い物を片付け、ツレは部屋に戻り、私は洗い場の片づけをしていました。

 

晩酌で酔いが回ったこぎ父は、よく、私がひとりで片づけをしているツレがいない間に、ちょっとしたことを漏らします。

 

脳出血の後遺症と、それだけではないのかもしれない部分とで、こぎ母とは会話がかみ合わないこともあり、ツレは息子で距離が近いのか、嫁のような立場の私が、ちょうどいい距離での話し相手なのかもしれません。

 

「昨日の夜から、ちょっとおかしいんだよね」

夕食のときに、こぎ母の様子をそんな風に言っていました。

隣に座っているこぎ母は、訳が分からないという振りをしているだけかもしれません。

「自分の思い通りにいかないって、なんかちょっと、おかしいんだよ」

隣に座っているこぎ母は、聞こえていないふりをしているだけかもしれません。

 

 

こぎ父は、私の背中に語り始めました。

「考えるんだよね。

こーぎーとらっこさんがいたから今こうやっていられるけれど、もし、誰もいなくてひとりだったら、お母さんとどうなっていたからわからないなって。

よく聞くじゃない?

思い極まってふたりで……ってね。

だからねほんと。

こーぎーとらっこさんがいてくれて、本当にありがたいと思っています。

ありがとう」

 

今日は1日デイサービスの日だったので、こぎ父がこぎ母と一緒に過ごした時間はそう長くはなかったはずですが、お酒のせいか、様子がおかしい(とこぎ父が感じた)こぎ母とのやり取りの後だったからか、そんなことを語っていました。

 

私はというと、大抵作業をそのまま続け、振り向くこともなく、手を休めることもなく、「はい」とか「そうですか」とか言っています。

 

家でも基本的には、こぎ母のことはこぎ父に任せている時間の方が長いので、私が何をやっているということは全く無く、(むしろ寄生している)そんな風に言ってもらえる所以はないのですが、こぎ父の何かのリミットが、いっぱいいっぱいになってきてしまっている兆候なのかもしれません。

 

言葉にすることで発散ができていればいいのですが、どうなのでしょう。

 

 

人は毎日、たくさんの選択をして生きているそうです。

選んだ選択肢がほかの誰かから見ると極端なものであったとしても、当人にとっては、選ぶしかない選択肢だったのかもしれない。

 

本当のことを話しても、「嘘だあ」なんて言われ続けていたら、気が狂ったっておかしくない。

 

自分もそうなってしまったかもしれない過去や現在や未来を考えて、こぎ父はつぶやいたのでしょうか。

 

 

生きとし生けるすべてのものと、生きとし生けないすべてのものが、安寧でありますように。

 

実家にいた頃、おぶつだい(仏壇がわりの小さな台)に手を合わせて心の中で祈っていた言葉を、今日も祈って眠ろうと思います。

 

どうか少しでも、安寧であれますように。

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