最初に断っておきますが、こぎ父は嘘はつきますが大嘘つきではありません。
らっこは嘘をついたことなんて一度もありません。
だって正直者だから。(大嘘)
要介護のこぎ母の今の状態をどのように捉えたらいいのか、ときどき戸惑うこともありますが、一番戸惑っているのはたぶん、こぎ母本人です。
「今日は、元の自分に戻りました」と目に涙をためながらこぎ父やツレ、らっこにありがとうと言う日が何日も続いたり、そんな風に言っていた数分後には、「今日は何して過ごしたんだっけ?」「これは何ごはん?」と、数時間前の記憶が飛んでしまったり、今が朝なのか昼なのか夜なのかわからなくなったり。
こんな感じがいたって通常営業であります。
歩いたり何したりと、見守りは必要ながらもご自分一人でもあれこれできるこぎ母。
それでも、ほんのさっきまでのことや数時間、数日前のことは記憶になかなか残らないようです。
まったくすべてわからなくなるわけでもなかったりして、
「あんなことしたよ」
「こんなことがあったじゃない」
とこぎ父が説明すると
「ああ、そうか、そうだったね」
と思い出すようなこともあるようですが
「なにそれ?知らない。覚えてないよ?」
と驚いたり疑うこともたびたびあります。
「覚えていない」と言う時はいい方で、覚えていないことをさもあったことのように話すこぎ父に攻撃的になることもしばしば。
ここ最近、特に疑いが強くなってきたように感じるようになりました。
信頼して尋ねる相手はこぎ父で、信じられなくて嘘つき呼ばわりする相手もこぎ父。
これはなかなか、当事者になってみないとわからないことなのだろうと思います。
昔、らっこが駅の改札を通ろうと切符を通そうとしたときのこと。
急に目の前に割り込んできた人がいて、らっこが切符を通した時には扉がバタンとしまってしまったことがありました。
「切符を入れたのに扉が閉まってしまった」ことを窓口の駅員さんに話したところ
「ほんとに切符を入れたんですかぁ?」
と100パーセント疑った口調で言われた時の腹立たしさ。
腹が立ったことは記憶にあるのに、どうやって改札を通ったのかは記憶にありません(笑)
疑われるというのは、らっこにとってはかなりダメージの大きい出来事のようです。
それが毎日のように……
すみません。脱線しました。
こぎ父が嘘をついていないことを分かっている人がその場にもう二人いるということが、こぎ父の安定につながっていればと思うらっこは、やっぱり自分は『嘘をつかれていると思い込んでいる人』の立場には寄り添えない(?)寄り添う思考を抱きにくいのだなと自己分析してみたり。
記憶がないこぎ母にとっては、こぎ父の言葉は確かに嘘なのだろうというのに。
こぎ父が、「本当だよ?こーぎーやらっこさんにきいてごらん?」とこぎ母を促しても、こぎ母はツレやらっこに尋ねることよりも『こぎ父の言葉を信じない』方を選択しているように感じます。
たまーに尋ねられることもありますけどね。
だけど、3対1じゃ自分が敵わないことがわかっているから、1対1でこぎ父を嘘つきにすることでご自分の安定をはかっているのかなあとか。
考えてみたり。みなかったり。
わかりませんけれど。
こぎ母が古くからの御友人と電話で話しても、話がとんちんかんになってしまうこともあったりするようです。
こぎ父が後で電話を替わり、
「とんちんかんでごめんなさいね。話に付き合ってくれてありがとうございます」
なんてことをお伝えすることもあるようで。
ある時にその御友人が、こぎ父に『否定しちゃだめよ?』と言ってくださったそうです。
決して命令でもなく強制でもなく、こぎ父にアドバイスという言葉が適当かちょっと違うような気もするのですが、こぎ父にかけてくださった言葉だったようです。
『否定しちゃだめよ?』
その御友人は既にご主人を見送っている方のようで、ご自分の経験からのお言葉だったのだろうと「(その御友人が介護をする人の気持ちや、介護が必要な状態の人のことを)わかってくれているからさ」とこぎ父は話していました。
ああもうどうしようもなく、それが難しいと思ってしまうらっこの頭は、やっぱりどうにも、嘘をつかれたと思っている人の方にはまだ寄り添えないんだなあと自覚。
嘘をついていない人に嘘つきと言うことを肯定的に受け止められないんだなと。
ただそこは、本人が覚えていないのだから本人にとっては紛れもない嘘であることへの理解と想像力と配慮と思いやりが足りないんだなと。
足りないものが多すぎて困ったものだなと。
もう一度言います。
こぎ父は大嘘つきではありません。
ちょっとは嘘もついているようです。
らっこは稀代の大嘘つきです。
だって、人間だもの。